海兵隊員の将来が一瞬で変わる
【キャンプ・ハンセン】 それはドイル2等軍曹がアフガニスタンへの2度目の遠征中、2008年3月 20日に彼の人生を永遠に変える出来事が一瞬に起こった。
「チームと一緒に爆発物を捜索していると、私 の探知機が何かを探知した」とドイル2等軍曹は話した。そして次の瞬間、かすかな地面の揺れで、何が 起こったのかはっきり分からなかった。
気がついてみると、爆風がドイル2等軍曹の身 体全体に反響し、彼の膝や大腿部に破片が突き刺さり、鼓膜が破裂し、小指が剥ぎ取られていた。
-当初-
ウエィン・ドイルは、いつの日か海兵隊の正装服であるドレス・ブルーを着用したいとの思いに駆られて育った海兵隊員の一人ではない。彼の言葉で言うと、高 校を卒業して、単に面白そうでやってみたかっただけのこと。
「高校卒業後、街に留まりたくなかったので、 海兵隊の新兵募集を見つけ出して、署名した」と1999年7月27日に入隊したニューヨーク州ネバーシンク出身のドイルは話し、「どんな仕事がしたいのか すら分からなかったので、暫定契約に署名して、『派遣させてくれ』と言ったんだ」と語った。
当初の無関心さをよそに、ドイル二等軍曹は新 兵訓練や最初の軍事専門職であった憲兵、自分が志願した現在の軍事専門職、第3海兵遠征軍第3海兵兵站軍第9工兵支援大隊爆発物処理中隊の爆発物処理隊員 として秀でていた。
ドイル二等軍曹が爆発物処理の分野への志願を 決断したのは、仲間の海兵隊員たちの支援がしたいとの思いからだと本人は話した。
「地方にいる時、誤射や軍需品の除去、簡易爆 発物の解除サポートに関しては、爆発物処理隊の隊員たちが第一応対者であり、私たちの任務の本質は、過ちが命を犠牲にすることを意味するので、全ての海兵 隊員がここにいることを望み、自分たちの任務に真剣に取り組むことが重要であり、私もその一員でいたかったんだ」とドイル二等軍曹は語った。
-影響-
悲惨な爆発の後、重傷を負ったドイル二等軍曹は、アフガニスタンのファラーで手当てを受けるために空輸されるまで3時間ほど待った。
ドイツにあるラムステイン空軍基地に搬送され た後、ドイル二等軍曹がメリーランド州ベセスダにある海軍病院で落ち着くまで、数ヵ月を費やした。
ドイル二等軍曹は多発損傷で、左腕の前腕や眼 損傷、軟部組織損傷、爆破の破片による重傷の広範囲の損傷を修復するために6回もの手術を受けた。
リハビリを受けている間、ドイル二等軍曹は 「悲痛」の精神状態を何とか逃れることができた。
「時には、自分がコントロールできない悪いこ とが起こる」と自分の経験について話し、「ただ愚痴を言わずに対処しないければいけない」と語った。
ドイル二等軍曹は治療の間も同部隊と連絡を取 り合い、自分を取り囲む状況にも関わらず、前向きだったと爆発物処理中隊の上級下士官、マイケル・シャープ上級曹長は言及した。
「痛みがあり、彼の身体と気持ちは傷ついてい たが、立派な態度を取り続けた。自分の状態が良くないことを承知してはいたが、そのくらいで済んで良かったと心に焼き付けて辛い時期を乗り越えた」と シャープ上級曹長は話した。
仲間の海兵隊員たちのサポートで、暗い日々を 乗り切ることができた。
「海兵隊の関係は根深く、そのようなことを経 験したことがなかった。海兵隊員の夫が来れない代わりに、配偶者が訪ねてきたこともあった」とドイル二等軍曹は話した。
ニューヨークのウエストポイント・メディカル センターで、さらに治療やリハビリを行なった後、ドイル二等軍曹は、2008年10月にようやく沖縄に戻り部隊に復帰した。
-移行-
6月4日、キャンプ・ハンセンにある爆発物処理中隊の建物で行なわれたささやかな式典で、ドイル二等軍曹は医療上の理由で退役した。彼の怪我は常勤の任務 に戻るにはあまりにも広範囲であることが判明した。
ドイル二等軍曹自身が退役を選択した訳ではな いが、彼は今後の人生で待ち構えていることを楽しみにしている。
「家族と一緒に旅をしたい。そして可能なら タービンかセルラー塔メンテの仕事に就きたい」とドイル二等軍曹話し、自分の経験や怪我を気にしないことで、安らぎを得たと語った。
「海兵隊員たちは戦場に行く。それが任務。負 傷したら、それに対処して前進し続けるが、立ち止まって自分を哀れむことはない」とドイル二等軍曹は述べた。
シャープ上級曹長と爆破物処理中隊の他の隊員 たちにとって、ドイル二等軍曹は謙虚であり、控えめに言って英雄である。
「私たちはドイル二等軍曹から精神力を学ん だ。彼の精神力、忍耐力、そして謙虚さは、私の定義では英雄である」とシャープ上級曹長は語った。
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